~みなみさんとニシキノ牝系の物語~
写真や記事で知っていた名前が、山野井さんの言葉で、少しずつ一本の線になっていく。
芦毛のヤマニンに惹かれるみなみさんが、リコール、アラバスタ、アドーレ、デンファレ、そしてアドホックへと続く時間に触れる、小さな読み物です。
「アドーレは……よく残したよな、と思うんですよ」
山野井さんがそう言った時、みなみさんは、すぐには返事ができなかった。

場所は競馬場ではなく、いつもの午後のカフェだった。
テーブルの上には、競馬新聞と、古いレースの記事を印刷した紙と、さやかさんが持ってきたメモが何枚か広がっている。
リョウさんはスマホで次の出走予定を確認していて、レンズさんは少し離れた席から、みんなの表情を見て微笑んでいた。
「アドーレ、ですか?」
みなみさんが聞き返すと、山野井さんはうなずいた。
「ヤマニンアドーレ。ヤマニンアラバスタの仔です」
アラバスタ。
その名前なら、みなみさんも知っていた。
もちろん、現役時代を競馬場で見ていたわけではない。
けれど、ヤマニンの芦毛を調べていけば、必ずどこかで出会う名前だった。
写真で見たことがある。
記事で読んだことがある。
白くて、きれいで、どこか強い印象を残す馬。
みなみさんにとってアラバスタは、少し昔のページにいる、憧れの芦毛だった。
けれど、その日、山野井さんが話していたのは、アラバスタの輝きそのものではなかった。
「アドーレは、アラバスタの一粒種です」
一粒種。
その言葉に、みなみさんは少し姿勢を正した。
たくさんの仔がいる中の一頭ではない。
ただ一頭。
その馬が残らなければ、そこから先は続かなかったかもしれない。
「でも、アドーレは……」
山野井さんは、言葉を選ぶように少し間を置いた。
「競走馬としては、華やかな成績を残した馬ではありません。見栄えがして、誰もが振り返るようなスターだった、というわけでもない」
みなみさんは、黙って聞いていた。
きれいだったから残った。
強かったから残った。
人気があったから残った。
そういう単純な話ではないのだと、山野井さんの声が教えてくれている気がした。
「それでも、戻ってきた。残された。そして、仔を出した」
山野井さんの指が、メモの上に並んだ馬名をゆっくりとなぞる。
ヤマニンデンファレ。
ヤマニンパニータ。
ヤマニンアドホック。
ヤマニンエイドロン。
「アドーレの仔たちは、それぞれの形で勝ち上がってきました。これはね、簡単なことじゃないんです」
勝つこと。
走ること。
血をつなぐこと。
みなみさんは、そのどれも、これまで別々のものとして見ていた気がした。
けれど山野井さんの話を聞いていると、それらはどこかで一本の線になっているように思えた。
「この牝系は、さらにたどればニシキノへ行きます」
山野井さんは、今度は別の紙を取り出した。
そこには、古い馬名がいくつも並んでいた。
ヤマニンファルコン。
ヤマニンアーデン。
ヤマニンリコール。
ヤマニンアラバスタ。
ヤマニンアドーレ。
どの名前も、みなみさんにとって初めて聞く名前ではなかった。
アラバスタは知っている。
リコールの名前も、血統をたどる中で見たことがある。
アドーレも、アラバスタの仔として覚えていた。
デンファレの写真だって、何度か見返したことがあった。
けれど、それまでは一頭ずつだった。
好きな馬。
気になる馬。
きれいだと思った馬。
名前を覚えていた馬。
それが、山野井さんの話を聞いているうちに、少しずつ一本の線になっていく。
「……知っていたはずなのに、こうして並べて聞くと、違って見えますね」
みなみさんがそう言うと、山野井さんはうなずいた。
「馬名は、知っているだけなら点です。でも、どこから来て、どこへ渡ったのかを知ると、線になるんですよ」
みなみさんは、テーブルの上の写真を見つめた。
リコール。
アラバスタ。
アドーレ。
デンファレ。
母から仔へ。
白い姿が、四代続いている。
「芦毛って、ただ白い馬というわけではないんですよ」
山野井さんは、そう言ってアイスコーヒーのグラスを少し脇へ寄せた。
「父か母、どちらかから受け継がれなければ、生まれてこない毛色です。生まれた時から真っ白というより、年を重ねるにつれて白くなっていく」
みなみさんは、写真の中の芦毛たちを見つめた。
若い頃の色。
少しずつ白くなっていく姿。
そして、その白さが次の世代へ渡っていくこと。
白い馬は、ただきれいなだけではなかった。
その白さは、時間の色だった。
そして、つながりの色でもあった。
「……白いって、続いてきた色なんですね」
みなみさんがそう言うと、山野井さんは静かにうなずいた。
「ええ。最初は、きれいだな、でいいんです。そこから、少しずつ見えてくるものがありますから」
みなみさんは、もう一度写真に目を落とした。
きれいだから好き。
その気持ちは、たぶん間違いではない。
でも、それだけではないのかもしれない。
「でも、アドホックは黒鹿毛なんですよね」
その名前を口にしたのは、さやかさんだった。
いつの間にか、メモにきれいな字で馬名を書き足している。
ヤマニンアドホック。
アドーレの仔。
アラバスタの孫。
リコールへと続く牝系の馬。
けれど、その馬体は白くない。
みなみさんは、そこで少し考え込んだ。
白い姿がつないできたもの。
けれど、白く見えなくても、確かに受け継がれているもの。
「そうなんですよ」
山野井さんは、ゆっくりと言った。
「見えるものだけが、血ではありませんからね」

その言葉は、みなみさんの中にすっと入ってきた。
芦毛は、つながりを見せてくれる。
でも、つながりは芦毛だけにあるわけではない。
白く続いたもの。
白くは見えなくても、確かに受け継がれているもの。
そして、まだ形になっていない未来へ向かっているもの。
みなみさんは、アドーレの写真をもう一度見た。
そこに写っている馬は、物語の主人公のように華やかではないかもしれない。
でも、山野井さんの言う「よく残したよな」の意味が、少しだけ分かった気がした。
残るということは、目立つこととは違う。
勝つこととも、愛されることとも、少し違う。
それでも、次へ渡すこと。
途切れさせないこと。
その静かな強さが、アドーレにはあったのだと思う。
「白い馬が好きです」
みなみさんは、小さく言った。
「でも、白いから好き、だけじゃなくなりました」
リョウさんが、少し驚いた顔でこちらを見る。
「おお……みなみさん、なんか深いですね」
「うまく言えないんですけど」
みなみさんは、写真とメモを見ながら続けた。
「白い姿に惹かれて見始めたら、その奥に、白くないものまで見えてきた気がするんです」
レンズさんが、ふふ、と笑った。
「あらあら。それは素敵な見方ね」
カフェの窓の外では、夏の光がやわらかく揺れていた。
競馬場の歓声も、馬の蹄の音も、ここにはない。
それでも、テーブルの上に並んだ馬名たちは、確かに走っているように見えた。
ヤマニンファルコン。
ヤマニンアーデン。
ヤマニンリコール。
ヤマニンアラバスタ。
ヤマニンアドーレ。
ヤマニンデンファレ。
ヤマニンアドホック。
それぞれの時代を走り、それぞれの形で残り、つながってきた名前たち。
みなみさんは、血統表をまだ山野井さんのように語れるわけではない。
昔のレースを、リアルタイムの記憶として持っているわけでもない。
けれど、写真で見たことのある馬がいる。
記事で読んだことのある名前がある。
好きだな、きれいだな、と思って覚えていた芦毛がいる。
その点と点が、今日、少しだけ線になった。
馬の後ろには、時間がある。
名前の後ろには、誰かが残そうとしたものがある。
そして、いま目の前を走る一頭にも、きっとまだ見えていない物語がある。
だから、みなみさんはこれからも、ヤマニンの芦毛を見つけると、少しだけ立ち止まると思う。
きれいだから。
もちろん、それもある。
でも、それだけではない。
その白さの奥に、どんな時間があるのか。
白く見えないその馬の中に、何が受け継がれているのか。
知りたくなる。
見届けたくなる。
応援したくなる。
白い姿に惹かれて。
でも、みなみさんが見ているのは、もう白さだけではなかった。
(了)
