2016年9月6日夕刻、三冠馬ミスターシービーの初年度産駒でGⅡ3勝の実績のあるヤマニングローバルが逝きました……
今朝、新冠・錦岡牧場の方からご連絡を頂戴し、9月6日の夕方、ヤマニングローバルが亡くなったことを知りました。29年間の長く波乱に満ちた馬生に幕を閉じました。
ミスターシービー初年度産駒でGⅡ3勝の実績のあるヤマニングローバルが、9月6日夕方逝ったとの連絡がありました。とても残念です。詳細がわかれば改めて。 pic.twitter.com/auTM0CGGBH
— ヤマニン倶楽部 (@YamaninClub) 2016年9月7日
ヤマニングローバルは、1989年9月に単勝オッズ1.3倍でデビュー戦を迎え、2着に馬に3馬身差を付けて初勝利を飾ると、次戦・黄菊賞(400万下)も快勝。3戦目で迎えたデイリー杯3歳ステークス(G2)では重賞初出走を単枠指定で出走し、レコードタイムで重賞初勝利を飾りました。デビュー前から評判になっており、評判通りの素質を見せつけました。しかしゴール後バランスを崩し、馬運車で運ばれました。検査の結果、右前種子骨が縦真二つに割れる重傷を負っており、通常であれば安楽死措置となる状況でした。しかし陣営は治療を選択し、割れた骨を2本のボルトで繋ぐ手術を施術され、復帰を図ることになりました。この骨折に主戦・武豊騎手は「来年のGIを4つ損した」と発言し、幻の三冠馬と呼ばれるようになりました。
治療は左前脚に蹄葉炎を発症するなど悪化するも徐々に良化し、1991年1月 落陽ステークス(OP)で4着復帰。6月には阪急杯(G3)2着、7月 高松宮杯(G2)3着と好走。復帰10戦目となる11月 アルゼンチン共和国杯(G2)で2年ぶりの重賞制覇を果たした。その後も第一戦で活躍を続け、同年12月 有馬記念(GI)6着をはさんで1992年2月 目黒記念(G2)で3つめのG2タイトルを戴冠した。以降は低調なレースが続くものの、1992年11月 天皇賞・秋(GI)ではレッツゴーターキンの3着と奮戦。その後も走り続け、大きな故障を抱えながら1994年3月 阪神大賞典(G2)10着まで29戦を走り抜けた。
病状が安定していたこともあり、陣営はボルトの除去を決断し施術したものの、その後は脚下がすっきりすることなく、競走馬を引退。生まれ故郷である静内町・ヤマニンベン牧場で種牡馬として繋養された。当時のヤマニンベン牧場には、ヤマニンベンスタッドとして名種牡馬ヤマニンスキーやヤマニンセクレなどがいた。競走生活の後半がパッとしなかったことや、ターフを去ってから種牡馬入りするまでにタイムラグがあったこともあり(生産者・土井瑛児氏談)、種付け頭数は12頭と恵まれなかった。
「なんとか機会を作りたかった」という土井瑛児氏の想いもあり、ヤマニンベン牧場では毎年1頭以上の種付けを行い、2年目の産駒であるヤマニンルーキー(1997年産 母ヤマニンマジェンダ)が大井で初勝利を飾り、3年目の産駒であるヤマニンハルカ(1998年産 母ヤマニンテリー)が川崎で2勝を飾った(その後、競走中止)。JRAでは結果を残すことができなかったが、最後の産駒となる2002年産世代から輩出されたヤマニンデュエル(牡)は、ヤマニンミラクル、ヤマニンアビリティ、ヤマニンリスペクトを送り出した母ヤマニンシヤレードに種付けされ、ヤマニン倶楽部では誕生前から大きな期待を寄せていた。2005年1月にJRAで初勝利を飾り、その後2勝計3勝を飾った。ヤマニンシヤレードへの種付けは、「その年、全く種が止まらず、最後のチャンスだからとヤマニングローバルに最後のチャンスをと思って」種付けた結果、見事に止まったという逸話を残した。
ヤマニンベン牧場が 新冠・錦岡牧場に経営統合されることになり、ヤマニングローバルは新冠・錦岡牧場繁殖場に移動。以降は種牡馬登録を抹消し同繁殖場の試情馬となる。「とても優秀だった」と、多くのスタッフの方から聞くことになりました。三冠馬ミスターシービーの忘れ形見としてファンの到来は今も続いていた。
今年に入ってから体調が優れず、スタッフの皆さんや獣医さんのサポートを受けていました。
9月6日朝、ヤマニングローバルを馬房に入れようとしたときに脚の腫れに気づき、獣医さんに診てもらい、治療を受けていました。午後3時に馬房から大きな音がし、スタッフの方が駆けつけたところヤマニングローバルが倒れているのが発見されました。再び獣医さんに診てもらったものの、最期は静かに逝ったそうです。途中、何度も立ち上がったという話が、ヤマニングローバルを象徴しているように思います。
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管理人なおやは、1998年に初めてヤマニンベン牧場を訪問し、土井瑛児社長や古谷場長(当時)にヤマニングローバルとあわせていただいたのが、思えばヤマニン倶楽部のきっかけでした。毎年会う度に、産駒の活躍を教えてもらっていました(ルーキーやハルカの活躍が、とても嬉しかった!)。錦岡牧場さんへ移動後も毎年会いに行き、その「末広がり」な「八」の字になっている額と、ちょっととぼけた風貌と雰囲気から、敬意を込めて「グローバル師匠」と呼んでいました。
ヤマニンシャレードとの1度きりの種付け、受胎、牡馬の誕生(ヤマニンシャレード産駒は、牡馬はすべてJRA勝利を飾っていた)、ヤマニンデュエルという命名、デビュー戦、初勝利……ヤマニン倶楽部では伝説の出来事でした。
とても人懐こい反面、慎重な一面もあり、放牧地に行くと「なんかくれるの?」と必ず寄ってくるものの、普段は人がいない放牧地の真ん中や人がいないコーナーにいることが多い師匠でした。正直、次に錦岡牧場に行っても、師匠がいないなんて、まだ信じられません。
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幻の三冠馬 ヤマニングローバル、そして私たちのグローバル師匠が走り去りました。お疲れさまでした……
これからも、師匠を生み出したヤマニン軍団を、応援していきます。
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