2024年10月14日 函館記念(G3)優勝などJRA5勝と活躍したヤマニンリスペクト亡くなる――
ヤマニンリスペクトの競走馬時代
2024年10月14日、新冠・錦岡牧場で繋養されていたヤマニンリスペクトが老衰で亡くなりました。
ヤマニンリスペクトは、1997年3月24日生まれの27歳、父サンデーサイレンス、母ヤマニンシャレードの牡馬。
既に種牡馬として認められた若きサンデーサイレンスと、ヤマニンミラクル(父アレミロード)、ヤマニンアビリティ(父アレミロード)という重賞勝馬2頭を輩出していた錦岡牧場が誇るヤマニンシャレードとの間に産まれたことから、大きな期待を背負って生まれてきたことは想像に難くありません。それを証明するように1999年6月 函館の3歳新馬で武豊騎手騎乗で3着(勝馬は後の桜花賞馬チアズグレイス)でデビューすると、折り返しとなる7月 3歳新馬(当時は新馬戦に2回まで出走できました)で初勝利を飾り、8月には初重賞挑戦となる函館3歳S(G3)に挑戦しました(7着)。期待が高いからこそ、そのまま9月 ききょうS(OP)、10月 アイビーS(OP)をともに1番人気で出走(4着、6着)。11月 京都3歳S(OP)で2勝目を飾り、翌春のクラシックロードへ備えることになりました。
3歳(当時4歳)では、3月にスプリングS(G2)8着、4月 皐月賞(GI)はエアシャカールの5着とクラシックロードを歩みますが、ダービーの出走権を獲得するために挑戦した5月 京都新聞杯(G3)で1番人気も8着となり、出走はかないませんでした。7月 ラジオたんぱ賞(G3)8着で休養すると、秋は10月 オクトーバーS(準OP)5着から菊花賞(GI)に挑戦し、7着に。ヤマニン軍団のクラシック制覇の悲願には手が届かなかったものの、堂々と挑戦し続けました。飛躍を誓い挑戦した11月 古都ステークス(準OP)を勝利し、3勝目を飾って再びオープン入りを決めました。12月には鳴尾記念(G3)で古馬重賞に出走し、ダイタクリーヴァの2着に迫りました。
休みなく頑張るヤマニンリスペクトは、続く4歳(当時5歳)も1月 日経新春杯(G2)で国際GI馬ステイゴールドの3着と好走し、さらなる飛躍に期待を寄せられましたが、2月 京都記念(G2)で8着となり、さらにレース後故障が判明してしまいました。
脚部不安から、新冠・錦岡牧場新和育成場で1年近く休養することとなりました。
(なおやはそのとき、ヤマニンリスペクトに会わせて頂いており、その時の写真がこちらです。)
休養から降級もあり、5歳(当時は6歳)5月 フリーウェイS(準OP)5着で復帰すると、6月 関ヶ原S(準OP)で4勝目をあげ、その勢いで米子S(OP)を33.9の末脚で3着と、鋭い末脚で力があるところを示し続けました。
7月、デビューの地である函館記念(G3)に遠征すると、4番人気ながら後方4番手から12頭を差し切り、重賞初制覇を飾りました。この勝利は、1991年 京成杯3歳S(G2)優勝・ヤマニンミラクル、1993年 京成杯3歳S(G2)優勝・ヤマニンアビリティに続くヤマニンシャレード産駒・JRA三兄弟重賞制覇となり、当時のJRAでは初の記録となりました。
参考情報となりますが、ヤマニンシャレード産駒は牡馬産駒すべて勝ち上がっており、当時からとても注目されていました。最後の産駒はヤマニングローバルの最後の産駒として3勝したヤマニンデュエル(牡)で、ヤマニンシャレードの優秀さを示していると言われています。
陣営は、秋の天皇賞を目標に調整することを表明し、休養を挟んだ10月に京都大賞典(G2)に出走するも7着に。レース後に脚部不安を発症し、引退となりました。
ヤマニンリスペクトの引退後
引退後は、静内・レックススタッドで種牡馬入りしましたが、サンデーサイレンスの血ではあるものの既に多くの種牡馬がいることもあり、供用5年間で活躍馬が現れることはなく、2008年以降は種付け実績はありませんでした。2010年12月より新ひだか・ヤマニンベン牧場で功労馬繋養展示事業の対象馬として繋養され、2016年には助成対象馬から外れるとともに、新冠・錦岡牧場泊津育成場で繋養されていました。
私のXアカウントの画像としても利用している写真ですが、ヤマニンリスペクトの写真のなかでは、この写真が一番のお気に入りです。ヤマニンリスペクトもまだまだ元気で、空の青さも素敵な仕上がりでした。泊津繁殖場に引っ越してすっかり馴染んだ頃のものです。
青々とした放牧地で大あくび。
実は臆病者だから、放牧地の真ん中で昼間はうたた寝しています。外敵から一番遠いのは……そう、放牧地のど真ん中。
新型コロナ禍でしばらく会うことができていませんでしたが、さすがに近年は寄る年波を感じずにはいられませんでした。
そして、まだまだ元気でいて欲しいと思っていました。
数日前に一度立てなくなり、年齢もあるのでスタッフのみなさんも見守っていたそうですが、また立てるようになり、10月14日も放牧地で過ごしていたそうですが――そのまま、旅立っていったそうです。
多くの期待を背負いながら、全力で走り抜いてくれました。今では塗り替えられてしまった記録も、当時は並ぶものない記録でした。
今までありがとう。どうかやすらかに――
ヤマニンリスペクトの思い出
ヤマニンリスペクトは、2000年から活動しているヤマニン倶楽部にとって、最初期に活躍してくれた馬の1頭と言えます。クラシックの夢も、GIへの挑戦も経験させてくれた馬でした。
当時のヤマニン軍団のなかで名牝として名高かったヤマニンシャレードは、現在もいっしょに応援してくれているへいさんと出会わせてくれた馬でもあります。へいさんは、ヤマニンミラクルからヤマニンシャレード産駒を応援するホームページを当時運営されており、インターネット黎明期をともに楽しんだ仲間でもあります。怪我から立ち直り、函館記念(G3)優勝を決めたときの「秋は天皇賞へ!」の興奮は今でも忘れられません。だからこそ、2002年に故・土井睦秋社長から届いた「引退」の連絡を伝えなければいけないときは辛かったです……品川で(当時仕事で、年の4分の1ぐらいを品川で過ごしていました)残念会を開催したことが思い出されます。
ヤマニンリスペクト――たくさんの思い出を、ありがとう。そして、お疲れさまでした。
(了)
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